印西市議会議員 ますだようこ(増田葉子)2期8年をふりかえる - 印西市議会議員 ますだようこ(増田葉子)

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あがり性との闘い、知らないことへの劣等感

私が市政・議会に関心をもったのは、平成12年、娘の通っていた保育園の保護者会役員をお引き受けしたのがきっかけでした。その年、それまで月に一回公費で実施されていた、お昼寝布団の業者による乾燥・消毒が隔月に削減されることになったのです。市からは、「これまでサービスでやってきたが、本来布団は個人の持ち物なので、これからは半分を保護者で負担してください」という趣旨のプリントが配られました。

削減された部分をどう補っていくか、役員として協議していたとき、ふと思いました。「行政って、よくこういう手を使って、段階的に削減していくよな」と。
さっそく担当課に電話し、「隔月はいつまでですか?」と聞くと「来年度は全面的に廃止です」との答え。「ああ、やっぱり」でした。
「たかが布団乾燥されど布団乾燥」とある保護者は言いました。布団乾燥が削減されると、保護者は週末には天日干しのために布団を持ち帰らなければならず、きょうだいで通園している人や自転車、徒歩で通園している人にはたいへんな負担です。
しかも、調査してみると、船橋市、市川市などは、布団は園の備品で無料の貸与品でした。管理はもちろん園の役目です。この違いはいったい何なんだ――
印西市の遅れた子育てサービスを実感した瞬間でした。
ちょうど同じころ、『印西市子どもプラン』なるものが策定され、ダイジェスト版が全戸配布されました。そこには「保育環境を整えます」「子育て家庭の支援を行います」と美しい言葉がキレイに印刷されていました。「言葉ばっかりで現実はこれかい!!」と怒りがこみあげました。

布団乾燥廃止の撤回を求めて市議会に陳情

今から思えばほとんど選挙らしい活動をせずに当選できたのは本当に幸運だった。保育園運動をきっかけに「こんな議会じゃいけない」と思ったものの、人前で話すことが何よりも苦手、あがり性、緊張すると頭が真っ白。「選挙ってしゃべらなきゃいけないんだった!」と立候補してから気づいた。でも、もう後には引けない。
選挙が終わって「もうしゃべらなくていい」などと思っていたら、「議員ってしゃべって質問しなきゃいけないんだ!」となってから気づいた。でも、もう辞めるわけにはいかない。
実はずっと上がり性で、場数によって多少はこなれてはきたものの、8年間ずっと一般質問のたびに緊張していた。緊張するとつい笑ってしまう癖があり、厳しい内容の質問をしているのになんで笑うのか、バカにしているのか、と誤解されることも度々あった。

会社を退職してフリーライターをしばらくしていたので「文章を書くこと」も当時は少し辛くなってきていた(仕事はなんでも辛く憂鬱ですね)。最初の議会が終わってみると、市民に報告をしなくちゃいけないことに気づいた。分からないことだらけ、苦しみながら文章を書き、報告書を発行した。そして、一人で報告会も開いた。

人が分かるように報告するには、まずは自分が理解していないとならない。報告会では、どんなことを聞かれるか分からないから、自分の勉強不足を露呈させてしまうことになる。とても恐いし、勇気がいった。文章は書き慣れていたかもしれないが「自分の名前と責任で」文章を発表することはこれまでなかった。なんというプレッシャーか。議会ごとに報告書を発行するためにどれだけ情報を集め、どれだけ勉強したことか。
一期目はとにかく勉強、勉強の4年間。いろんな勉強会に参加し、会議を傍聴し、資料をもらっては読み、分からないことがあれば職員に聞きに行き……。もっとも難解な財政を理解するために、一日中、財政課長のわきに座り込んであれこれ聞いたこともあった。本当に分からないことだらけだったので必死だった。常に自分の勉強不足が劣等感としてあった。今から思うとあの頃の勉強が今に生きてきていると思う。とくに財政の仕組みについてある程度理解できたことは「基礎学力」になっているように思う(そんなだったので「勉強しない議員」の存在にいつも腹を立てていたっけ…)。通してみると在職8年間で、議会のたびに毎回、市内全域を対象とした報告書を出し続けてきたのは私だけだったし、報告会を毎回開いてきたのも私だけだった。

会派の変遷~魑魅魍魎の世界~

議会内での会派所属も8年間でずいぶんと変遷した(そのことを批判されたこともあったかなーー;なぜ批判されるのか分かんないけど―)。一番最初は、M議員、G議員と3人会派で、本当にわけ分からないうちにM議員の怒りをかい(わけ分からないことで怒るのはやめてほしい)、3ヶ月でこの会派は解消した。その後、その1年目は会派を組まずに一人で過ごした。2年目はG議員と二人会派を組み、翌3年目の夏、市長選に伴う補欠選挙で当選してきた民主党のO議員を加えて3人会派になった。1期目最後の年には現職県議の急逝で補欠選挙があり、G議員が県議会に転じたことで、O議員と二人となり1期目を終えた。
O議員は体調の都合で一期のみで引退したため、2期目の私は会派を組もうと思ったら、自分から仲間探しをしなくてはならない。新人のE議員、M議員を丸二日間ほどかけて説得し、3人の会派を組んだ。行きがかり上、会派代表を務めたが、私には荷が重く、M議員ともさまざまな面で会派活動に齟齬が出てきたため2年間で解消を決めた。2期目後半の2年間は、合併交渉の結果、2名の保守系会派とE議員で4人の会派をつくった。
議会内人事をめぐっていろいろなことがあったなと思い出す。常に議会内で主流派でなかった私は人事面では本当に痛い目にあい続けたし、思い通りになった試しがない。議長選挙をめぐって、私とG議員の男女関係を捏造した怪文書も出た(今でも口さがなく言われているらしい。好きだね~ --#))し、自分はどうでもよかったのに、丑三つ時に議長不信任案を出す羽目になったこともあった。議会に居続けることに疲れるのは、こういう人間関係に尽きる。ほとほと嫌になる。何を考えてんだか分からない人が多すぎる。自分の立場を有利にすることしか考えない人が多すぎる。都合よく人事や選挙の貸し借りを忘れる人が多すぎる。3期目の市議会に正直いって意欲がでなかったのも、魑魅魍魎たちの世界に飽き飽きしたからだ。

北総線運賃問題と民主党入党

2期3年目の冬、民主党に入党した。市議会に政党政治は必要ないと思ってきたので、無所属をずっと貫くつもりだったが、北総線の運賃問題をめぐってどうしても国政につながる位置がほしかったのだ。これまでも「非自民系市議」として、民主党、社民党、市民ネット系の人々と多く交流してきたし、国政選挙では民主党を支援してきた。政権交代と成田新高速(スカイアクセス)の開通で、一気に運賃問題が解決できるかも!と思った私は、民主党の人に外から「ああするべきだ、こうするべきだ」と言うよりも、内部から訴えていくつもりで「清水の舞台」から飛び降りたわけだ。これが運の尽きだったとは思いたくないが……。私が入党した当時は、いま政治資金規正法違反でマスコミをにぎわしている代議士秘書の一人が県議会選挙の候補者だった。入党直後にその秘書の逮捕劇があって、状況は目まぐるしく変わり、結果的に私は浪人することになった(すべて自分で決めたことだが)。入党の理由だった北総線運賃の解決はほぼ絶望的と個人的には思っている。積み上げてきた運賃のスキームはこんなに弱い政権で解決できるわけがないし、震災もあり、公にお金がなさ過ぎる。
地方議会に政党政治は必要かどうか……理想と現実があまりにも乖離しすぎていて、自分の中で結論のでない状態が続いている。でも、今のところ「やーめた」という気持ちにはならずに、もう少し居座る(居直る?)つもりでいる。

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