9月議会が終わってから諸事雑事に忙殺されて、報告の作業にまったく手が回わらず、「ホームページの更新が遅い」とまたお叱りをいただきそうです。そうこうしているうちに総選挙です。
9月議会で悩ましかったのは「教育環境改善に関する請願」でした。文教福祉常任委員会では賛成し本会議で反対することになってしまいました。そして、改めて請願は難しいと思ったところです。
第16条 何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。
地域課題の解決、行政への要望として、請願は憲法で保障された権利です。改めて憲法の条文をみてみます。
言論の自由がない時代背景が感じられる文章ですが、政治や行政に物申す自由は誰にでもある権利ですということは、請願について考えるとき、原点となるものだと思っています。
私自身も、今から二十年近く前になるけれど、保育環境改善に関する請願活動をしました。当時は、請願とは、行政に対して、自分が違うと思ったことを意見表明すること、いわば「意見表明の権利」という感覚をもっていた記憶があります。
市議会に入って、実際、審査する側で請願をみてみても、当時の私のように、個人的意見をただ主張したい請願(陳情)もわりとあると思います。それはそれで、憲法に保障された在り方ではないかと思っています。
しかし、多くは、行政の対応への突破口として議会に応援を求めてくるものです。
さて、賛否を審査する基準としては、「実現可能性」は大きなポイントとなります。上記の請願も一部「実現可能性が低い」部分がありました。趣旨には賛成だけど、その実現できないだろうところをどうするか、もう少し議論して方向性を出しましょうよ、というのが私の意見でした。方向性を出すために「付帯意見」の準備もありました。しかし、継続審査とする要求が否決されたために、「とにかく採択する」という形になってしまいました。採択はされたけれど、願意実現という面からみたら、それは正しいことだったのでしょうか。議会に反対意見が一定数あるなかで、数の力で採択するよりも、議会が全会一致で応援できる状況をつくってもらったほうが、その後の願意の実現のためになったのでは、と私は思います。
請願は何のために出すのでしょうか。もちろん、請願で示した願意を実現するためです。しかし、活動するうちに、「請願を通す(採択される)こと」が目標になってしまいがちです。請願は、採択されたからといって必ず行政が動くものではありません。少し前にガタガタの道路を改修してほしいという請願が採択されたのち、何年にもわたって予算措置どころか調査さえされないことがありました。採択後のいわば「メンテナンス」がなされなければほったらかしされる可能性は高いのです。採択されれば来年度からすぐに、スクールバスが運行される、なんていうことは決してありません。採択はスタートです。そしてその後のメンテナンスは賛成した議員に課されると私は思っています。
審査する立場でいえば、悩ましくないものにしてほしかったと思います。小規模校を存続するために、子どもがあふれている大規模校から、希望者をスクールバスで小規模校に転校させてもらえれば両方にとって都合がいいではないか!という机上の解決策を文面に落とすのではなく、小規模校の統合を決めている「適正規模・適正配置基本方針を凍結してほしい(あるいは見直してほしい)」ということでよかったのではないかと思います。紹介議員となる議員が、言ってみれば「通りやすく、メンテナンスしやすい」内容を請願者と一緒に調整してくれていれば、と思うわけです。
しかし、そうした「願意の操作」が行われることが果たして憲法で保障された権利の侵害にならないのか、意見表明の自由の侵害にならないのか、私の中では答えはでないのですが。どういう形が望ましいのでしょう。なにしろ請願は難しいです。(2021.10.20)